苦難は福門の入り口である ―苦難福門―
茨城県水戸市で住宅会社(株)ディレクタや防水・塗装・基礎工事や白アリ予防の(有)シュウトク、ドローンスクールなど数社を経営しています。渡辺秀徳です。
以前も書きましたが、私の習慣の一つである護摩焚きをするため、笠間市の「新明山 金剛院 岩間不動尊」に、毎月1日と第3日曜日に伺っています(その時の記事はこちら)。
私はお陰様で日々忙しく動いていますので、こうして仏様にゆっくりと手を合わせる時間というのはとても貴重なものです。合掌の時の左手は神様(仏様)、右手は自分をあらわしているといいますから、仏様と一体になる感覚があり、こころ穏やかになれます。
この「護摩」という言葉はサンスクリット語の「ホーマ」を音写したもので、「物を焼く」という意味だそうです。サンスクリットとは、古代インド、アーリア語に属する言語で、インドや東南アジアにおいて用いられた古代語、ヒンズー教の礼拝用語でもあるとのこと。
物を焼くと炎が上がりますが、その炎が重要のようです。
燃え上がる炎は「天の口」であり、仏の智慧の象徴でもあり、その口から供え物を食する。つまり、納めた護摩木は、供え物として焼かれるのです。そして煙が天に届くことで、天は食を頂くことができ、代わりに人に福を与えるとされています。今では、主に天台宗や真言宗など密教系の仏教宗派が護摩行という修行の一環として行っているそうです。
私も、木札に「願意」を書いて、炎の中に納めました。家族のこと、会社経営のこと、ここでは言えない諸々の思いを込めて描いた木札は煙を上げて燃えています。寺の中が煙で満たされ、邪気が浄化されていくようです。目をつむって、心を鎮めてご本尊様、自分自身と対話します。この自分との対話を与えてくれるのが護摩焚なのです。
護摩焚のはじめと終わりに、住職である槍﨑瑞雲(うつぎざき ずいうん)さんの講話があります。
本日の講話では「こころの弱い人が宗教をやるのだ。強いこころがあれば宗教に頼らないという人がいますが、それは間違いで、芯の強い人だからこそ、継続して仏様に手を合わせることができるのです」とおっしゃっていました。
人間がこの世に生をうけたのは魂を修行させるためで、生きていくのに辛いことが多いのもこの為であり、生老病死の四苦も、あの世でランクの高い魂になるための修行なのだそうです。
私たちは何かあった時にだけ仏様に手を合わせますが、何もない時にこそ手を合わせることが大切であり、それを続けることによって、何か起こりそうな時にメッセージを送ってくださるということです。毎日手を合わせることは難しいですが、まさに「継続は力なり」であると。
昨年は、現在(いま)の社会の一番の心配ごとであるコロナのことに触れてお話をしてくださることが多かったように思います。昨年の3月の時には「これから大変なことになる」とのご本尊様からのお告げがあったそうです。
そして9月になり、住職さんがご本尊様に「どうして人間にこのような試練を与えるのですか」と問うてみたところ、「これは試練ではない。人間が今までしてきたことに対する報いである。自然破壊など好きなようにしてきた結果である。大自然の怒りである。一人ひとりが、人間として行ってきたことを心から反省し、こころ改める人が増えていけば自然とよくなっていく」との応えがあったそうです。
いまコロナの影響を受けて苦しんでいる方が沢山おられます。最近はそういった方の相談も多くなってきたようで、ある方がどういった心持で生活していけばよいのか相談に来られたので、住職さんがご本尊様にお聞きしましたところ、「いまは辛抱のとき。必ずよくなっていきます。景気もよくなります。光がみえてきています。いまは、その時にむけて備えてください。」との応えがあったそうです。
私のこころにも光がさしてきました。もう少しの辛抱です。
私自身も、今一度自分自身を見つめなおし、反省し、「その時」にむけて準備していこうと強く感じました。もちろん、毎日神棚に手を合わせることも忘れません!