茨城県水戸市で住宅会社(株)ディレクタや防水・塗装・基礎工事や白アリ予防の(有)シュウトク、ドローンスクールなど数社を経営しています。渡辺秀徳です。
6月14日(水)、茨城県倫理法人会 水戸地区合同ナイトセミナーに参加してきました。常々、大変お世話になっている、小室光由茨城県倫理法人会幹事長の講話を聞くためです。
小室幹事長が代表取締役を務めていらっしゃる(株)K.Uコーポレーションさんは、運輸業をはじめ石油販売・整備、観光バス事業、大型自動二輪の革小物などの販売、保険代理店など、幅広い事業を展開され、息子さん、娘さんも勤務されています。
目次
「ボンボン」と、社員との闘い
講話は小室幹事長の自己紹介からスタートしました。(ここからは、親愛の情を込めて、あえて「小室さん」と、記載させていただきます)。
小室さんは1964年ひたちなか市生まれ。大学卒業後は都内の旅行代理店に就職し、24歳で結婚。
「いずれは家業を継ぐんだろうな、と頭にあったので。結婚を機に実家に帰ることにしたんです」
25歳で専務取締役として両親の会社に就職することに。ちょっと前まで、都内のサラリーマンだった小室さん。環境は一転しました。
「サラリーマン生活から、いきなり親の会社の専務取締役です。理由は息子だから。簡単にいえば、ボンボンなわけです。今はK.Uコーポレーションなんてカッコいい社名ですけど、当時は「小室運輸」。夏なのに、長袖の社員がいるんです。汗をかくと、うっすらと『絵』が浮き出てくる。意味、分かりますよね。893の事務所に裸一貫で飛び込んだ感じでした(笑)」
社長であるお父様から一番最初に課された仕事は、ひたすら書類に判子を押す作業だったそうです。
「振り返れば、保証人になる手続きだったんですよね。大変なことをしていたと気づくのは、少し先の話…」
ある日突然、部下になった「クセの強い」社員たち。一筋縄ではいきません。それでもなんとかしようと、時には取っ組み合いのケンカもいとわない日々が続いたそう。
「『勝つまでやる』が当時の私の主義でしたから、しょっちゅうケンカです。でも、いつまでもそんなことをやっていたのでは、会社はおかしくなってしまう。コミュニケーションを取るにはどうしたら良いだろうって、悩んでいたんです」
経験ゼロの運輸業に飛び込んだ小室さん、業界の事は全く分からない。だから分からないことを、社員に積極的に聞くようにしたそうです。時には頭を下げ、社員に罵倒され、軽口を叩かれながら。
「教えてください、申し訳ない、すみませんを繰り返す。ストレスだらけの毎日です。だからたまの休みになると吐いてしまう。数か所に円形脱毛症ができました。それでも、徐々に社員とコミュニケーションが取れるようになっていったんです」
晴天の霹靂、崩れ落ちる「日常」
そんな日々を送りながらも、仕事が分かりはじめてきた30代、ようやく落ち着いてきた矢先の事でした。
「国税庁の査察が入って、追徴課税を言い渡されたんです。金額にして1億円。世はバブル崩壊の真っただ中。そんな状況なのに母は、保険を解約したり、現金化できるすべてのものを金にして色々な手段を講じて、なんとか払ったんです。私は当時、専務とはいえ蚊帳の外。「うちって実は、金持ってたんじゃん」くらいの感じで、他人事として捉えていた。銀行とのやっかいな交渉事も、実はすべて母がやってたんです。心身ともに、尋常じゃなく疲弊していたんですよね」
なんとか1億円を納税したあと、社内は小銭ひとつ落ちていない、ほとんど何も残っていない状態だったそうです。それでも事業は続く、支払いも続きます。1年後、小室さんのお母様は心労がたたり、脳梗塞になってしまいました。
「脳梗塞のあと、母が会社に復帰することはありませんでした。副社長であり、社の屋台骨だった母が不在となったことで社員の不信感が募っていった。当時事務員さんは6人いたんですが、一人辞め二人辞め、最終的には、会社のことをまだよく知らない、社歴の一番浅い1人だけが残ってくれました。その方は、今も元気に活躍してくれています。本当に感謝しかありません」
会社のことをよく知る人がいなくなり、頼れるのはお父様だけになってしまいました。
「ことあるごとに親父に相談するんですが、親父は現場仕事が中心で、経営全般は母まかせだったんです。だから親父は会社のことなんて何も把握してなかったんですよね。もう、自分がやるしかないって追い込まれたんです」
バブル崩壊で売上は激減、会社の現金は刻一刻とゼロに近づいていく。事業の継続は難しいのでは?やめようか?でもそうしたら社員はどうなる、社員の家族はどうなる?自問自答の日々が続きました。
「夜中にひとり、会社の自販機にある小銭を取り出して、それを社長室のデスクの上に一枚一枚重ねるんです。小銭ですから集めたって1万円程度。事業の足しになんかならないんですけど、そんなことをせざるを得ない精神状態でした。とにかく、ただ空しい、悲しい」
限界ギリギリの毎日を送る中で、小室さんの両親に対しての想いが、いびつに変化していきました。
「今のこのひどい状況を作ったのは俺じゃない。ぜんぶ親父が、母親が悪いんだ…。両親を憎むようになりました。そんな精神状態だったので、家に帰ってもひどかった。家では家族が何も知らずにヘラヘラ笑っている。『俺の苦しみを、知らないくせに』。そうやって、妻を、子どもを責める、最悪の父親でした」
2度の自殺未遂。その先に見えたもの
資金繰りに奔走する日々は無慈悲に続きました。小室さんは追い込まれるあまり、悲しい選択をしてしまったのです。
「会社から自宅まで、普通に帰れば10分くらい。でも家に帰りづらくて、山の方に行ったり、海の方に行ったり。ふらふらしてから深夜に帰宅する日々が続いたんです。ある日、那珂湊に海門橋ってあるでしょう。そこの駐車場に車を停めてたんです。気づかないうちに橋の真ん中くらいまで歩いていた。そしたら、夜釣りをしていた人に『おい!!』って声を掛けられて。瞬間、はっと我に帰って、体中震え出した。それで、その日は思いとどまったんです」
それでも小室さんの不安は消えなかった。ある日、足は再び海門橋に向かっていました。
「橋の真ん中で、もう、半分くらい身を乗り出していた時。後ろから首根っこつかまれて。通りがかった男性が、助けてくれて、車まで連れて行ってくれた。体が震えて、涙が止まらない。その方は、私が落ち着くまで一緒にいてくれて。最後に、『何があったのかわからんけど…がんばれよ』って言ってくれたんです。名前、聞いておけば良かったな。彼がいなかったら、今の私はいません」
ようやく落ち着いて、家に帰ったのは明け方だった。玄関を開け、中に入ると、次女に出くわしたそうです。
「普段から、子どもたちが起きる前に出社して、子どもたちが寝た後に帰る生活。私は常に尋常じゃない精神状態だったので、子どもたちは私には全然懐いていなかったんですけど。その日はなんでか、次女が足元にぎゅっと抱き着いてきて。『何やってんの、お父さん』って言われたんです。たぶん娘が私を、叱ってくれたんですよね」
その日を機に、小室さんは「リスタート」の覚悟を決めました。まず取り組んだのはコストカット。当然のことながら、一番のコストは人件費です。当時100人いた社員一人ひとりを社長室に呼び、面接をしたそうです。
「申し訳ないのだが、俺に貸しを作ると思って給料を1万円下げさせてくれないか…。そんな話もしました。私の給料もカットし、親父の役員報酬も半年かかって大幅にカットしました」
本当に感謝すべきこととは
小室さんの根っこには、両親への憎しみの炎が静かに燃えていましたが、それどころではない状態が続いていました。
「仕事をすればするほど、会社を知れば知るほど、なんでゴルフの会員権なんか買ったんだとか、こんなに無駄な経費を使ってたんだとか、両親への怒りが込み上げてくるんですよね。でも、日々は待ってくれない。今日できることを今日やらないと、明日が怖い。だから、短期・中期・長期でやるべきことを整理して、黙々と取り組みました。そうやって、ようやく単年黒字が出せるようになっていったんです」
そうやって、徐々に成果が出るようになっていくと、小室さんの心には、ある感情が生まれてきました。
「社員に対して、感謝の気持ちが生まれてきたんです。普通に考えたら、当時のウチなんて、やめた方がいい会社ですよね。そんな会社で、朝早くから夜遅くまで頑張ってくれている。どうにかして、お返しできないかって思ったんです」
とはいえ、ボーナスを出す余裕はありませんでした。小室さんは、社員に対して年に1度の寸志を出すことに決めました。
「数万円の寸志です。とはいえ100人いれば数百万円の出費。だから寸志と一緒に、社員一人ひとりに手書きメッセージを添えて渡したんです」
小室さんは、次の日の朝の出社が怖かったそう。「もっと出せよ!」と言われるんじゃないかと、心配だったんだとか…。
「朝出社したら社員が2人いて。グッと気合を入れて、彼らにあいさつしたら、驚きの言葉をもらいました。『社長、ありがとね。うれしかったよ。社長も大変だと思うけど、俺らも頑張るよ!』って。うれしくて、一回会社を出て自分の車に戻って、泣きました。その時、心の底から、社員のために喜んでもらえる会社を創ろう、それが俺の使命だって、思ったんです」
ゼロをイチにする。産みの苦しみを学んだ倫理
徐々に会社の業績が回復してきた矢先、2015年。県が「水戸市分封」を発表した折のこと。当時地区長だった宮田満男さんから小室さんに「県会長と幹事長と一緒に、御社に行くよ」という連絡があったそう。
「企業訪問の一環だろうと思ってお迎えしたら、開口一番、『開設実行委員長になってほしい』と言われて。いらっしゃったのは確か、午後1時だったかな。雑談などではぐらかしても、やんわりお断りしても、なかなかお帰りにならない。時間は流れて16時。次のアポもあったので根負けして、実行委員長を引き受けることになったんです」
そして小室さんは、新しい単会の立ち上げを経験することになりました。最初こそ「誰かがやってくれるだろう」という他人任せな気持ちでいましたが「このままではいけない」と、一生懸命に会員獲得に取り組むようになったそうです。かくして予定通り、2016年5月27日に水戸市準倫理法人会を開設し、会長となりました。
「会員を増やしていく過程で、大事なことに気づかされました。私はそれまで『当たり前』に甘んじていたんです。親の会社で仕事する。先人の努力のもと開設した倫理法人会に参加する。『産みの苦しみ』を味わっていなかったんです。実行委員長は、まさに「ゼロをイチ」にする仕事でした。頑張れば頑張るほど、今まで関わりのなかった人が協力してくれるようになっていって。それまで私は、人間不信から人の力を借りず、『俺が俺が』と、たったひとりで戦ってきたつもりでいた。初めてチームプレイの大切さを知り、自分の認識の間違いに気づいたんです」
大きなことは、みんなと一緒にやらないとできない。シンプルで重要な事実にたどり着いたのです。その体験から、小室さんはご自身の「過ち」に気づかされました。
あまりに小さな、父の背中。反始慎終の意味
万人幸福の栞、第13条に反始慎終(はんししんしゅう)があります。両親の恩、祖先を敬う心の大切さを説いた内容です。以下、引用します。
私たちは、枝葉のことには気をつけますが、本(もと)を忘れがちです。初心を忘れ、受けた恩を忘れるから、いつしか怠け、過ちをおかします。本を忘れないで、後始末をきちんとしましょう。とりわけ私の命の根元(もと)である両親の恩を感じ、祖先を敬う心が大切です。
当時の小室さんは、反始慎終に納得がいかなかったそうです。理由は、両親を憎んでいたから。
「開設の経験から得た学びのおかげで、『俺は色々と過ちを犯してきたのかもしれない』と素直に考えられるようになったんです。倫理で大切にしていることの一つに『実践』がありますよね。親父に対して、『反始慎終』を実践しようと思ったんです」
すぐさま実家に帰ると、お父様に思いのたけをぶつけました。会社を引き継ぎ、借金を背負い、その原因はすべて両親にあると思っていたこと。そのせいで、憎んでいたこと。そして、そんな風に思っていて、本当に申し訳ないと感じたこと…。
「今すぐ、背中のマッサージをさせてくれって、親父に頼んだんです。いきなりだったんで、親父もしぶしぶ、という感じで横になってくれました。マッサージしようと親父の背中に触れたら…女性のように小さいんです。『ああ、こんなにも、小さかったんだ…』って。親父は中卒で会社を起こして、家族を養って、社員に給料を払って。どんだけ頑張ったんだろうって。本当に申し訳ない、ありがとう。ありがとうって、心の底からの声が漏れていました。父の背中が小さく揺れていて、泣いてるってわかって。それまで、俺は未来を見るんじゃなくて、親父が残してきた過去の清算に囚われてしまっていたんだって気づいたんです。初めて、親父と通じ合えた瞬間でした」
さあ、これからだ!と気持ちが晴れ晴れとした、と小室さんは、振り返ります。
「これが倫理の『実践』と『学び』だったんだとわかりました。これからは、父が喜ぶことをしよう。そう決めて、実践していくうちに、父の言葉から、文句は無くなっていました」
倫友こそ、本当の財産
「物事を学ぶには金が必要。私はずっとそう思っていました。自分に必要なたった1行2行の文字を探すために本を買うことが、私にとっての学びだったんです。だから倫理法人会に入って驚きましたよ。何か悩みを相談すれば応えてくれる『プロ』が、無償で物事を教えてくれる。学びを与えてくれる。お金は必要ですが、70歳、80歳になって商売の現場から離れたとしても一緒にいられる友人の方が、比べ物にならないほど大切です。人に対しての感謝の気持ち。仲間が良くなるように、自分にできることを全力でやる。そうやっていくうちに、私利私欲が無くなっていく。それが、倫理法人会で学ぶ仲間たちの、共通の感覚です。これからもこのご縁を、大切にしていきたいと思います」